第3回 「努力すれば報われる」が他人を裁く武器になる――公正世界仮説

巨大な木槌から一人の人物を証拠の本で守る黒髪の案内役 社会心理学
励ましの言葉も、他人へ向ければ判決文になる。

この連載では、ガチャのレアリティを使って、努力・初期条件・公正世界仮説の関係を考える。星は人間の価値や能力そのものを示すものではない。

「努力すれば報われる」という言葉には、二つの使い方がある。

一つの標語を、励ましにも処罰にも使える。なかなか便利な武器だ。刃を自分へ向ければ向上心、他人へ向ければ自己責任論になる。そして他人へ振り回す者ほど、自分は善意で助言していると思っている。刃物に「応援」と刻めば安全になるとでもいうのだろうか。

一つは、これから行動する自分や誰かを励ます使い方だ。勉強を続ければ理解が深まるかもしれない。練習すれば上達するかもしれない。未来の可能性へ向けた言葉である。

もう一つは、すでに結果が出た他人を評価する使い方だ。

成功したのだから努力した。
失敗したのだから努力しなかった。
苦しんでいるのだから、どこかで間違えた。

同じ「努力」という言葉でも、こちらは励ましではない。結果から過去を裁く判決文である。

なぜ人は、結果に見合った理由を本人の中へ探したくなるのか。その手がかりの一つが、公正世界仮説だ。

世界には秩序があってほしい

公正世界仮説は、人は自分にふさわしい結果を得る、という世界への信念を扱う考え方である。

良い行いをした人は報われる。悪い行いをした人は罰を受ける。努力した人は成功し、怠けた人は失敗する。

世界がそのように動いていると考えられれば、将来を予測しやすくなる。努力する理由も持ちやすい。自分の行動によって未来を変えられるという感覚は、心理的な安定にもつながる。

だから、公正な世界を信じること自体を、単純に愚かさとして処理するべきではない。人が長期的な目標へ向かううえで、一定の意味を持つ面もある。

問題は、現実に理不尽な出来事が起きたときである。

善良な人が被害を受ける。
努力した人が報われない。
何も悪くない人が病気になる。
働いていても生活が苦しくなる。

こうした事実は、「人はふさわしい結果を得る」という世界観を揺らす。

そこで世界の側を疑う代わりに、被害を受けた人の側へ理由を探すことがある。

危険を避けなかったのではないか。
努力が足りなかったのではないか。
本人にも落ち度があったのではないか。

被害者の行動や性格へ不当に原因を求める被害者非難は、公正世界信念との関係で研究されてきた。日本心理学会の解説

公正を願うことと、現実を公正だと決めること

ここでは二つの話を区別する必要がある。

「社会は公正であるべきだ」という価値判断。
「現在の結果はすでに公正に配られている」という事実判断。

前者は、制度や環境を改善する理由になる。不当な格差を減らし、努力が成果につながりやすい社会を目指す考え方である。

後者は、現状を正当化する理由になり得る。成功者には成功するだけの資格があり、困窮者には困窮するだけの原因があったと考えれば、制度の問題を調べずに済む。

似た言葉に見えるが、向いている方向は逆である。

公正を実現したいのか。
現状を公正だったことにしたいのか。

この違いを曖昧にしたまま「努力すれば報われる」と唱えると、標語が免罪符になる。

報われなかった人には、努力が不足していた。
支援を求める人には、まず自助が足りない。
制度に疑問を呈する人には、責任転嫁だと言う。

これなら社会の仕組みを検討する必要はない。失敗した本人へ請求書を回せば、世界はいつでも公正だったことにできる。

制度の欠陥を調べるより、困っている者の履歴書から落ち度を探すほうが安上がりだ。しかも落ち度など、人間を相手にすれば必ず何か見つかる。完璧に生きられなかった罪を問い始めれば、救済対象をゼロにすることさえできる。実に効率的な公正である。

成功者の物語が証明できる範囲

成功者が「努力したから成功できた」と語ることがある。

本人が努力したという証言は尊重できる。しかし、その一例だけで「努力すれば誰でも同じ結果を得られる」とは証明できない。

成功した人は、自分が利用できた条件を日常の一部として受け取っている場合がある。学習場所、家族の支援、健康、情報、人脈、失敗しても生活が崩れない余裕。本人にとって当たり前だったものは、成功談の中で省略されやすい。

さらに、同じ努力をして結果が出なかった人は、成功者として取材されない。

表舞台にいる人の努力だけを集めれば、努力と成功がきれいにつながって見える。しかし、その外側にいる人を含めなければ、努力の効果と選抜後の物語を区別できない。

これは成功者が嘘をついているという話ではない。自分の経験から語れる範囲には限界があるという話だ。

一人の成功談は、その人の人生を説明する資料にはなる。社会全体の因果関係を証明する万能な法則にはならない。

成功者が朝五時に起きていたからといって、朝五時が富を生産しているわけではない。愛用の手帳や朝食まで真似して成功できるなら、経済政策など不要だろう。物語として気持ちよいことと、因果関係として正しいことを混ぜるな。

努力不足という説明の甘さ

他人の失敗を努力不足で説明すると、判断する側には心地よい。

自分が同じ目に遭わないと思えるからだ。自分はもっと注意している。もっと努力している。もっと正しい選択をしている。だから自分は大丈夫だ。

だが、その安心は事実確認から生まれたものとは限らない。

本人の条件を調べず、結果だけで理由を作っているなら、それは分析ではなく、自分を安心させる物語である。

公正世界仮説を知る意味は、「自分は偏見を持たない人間だ」と認定することではない。理不尽な結果を見たとき、自分がどの情報を確認せずに本人の責任へ変換したのかを点検することにある。

努力を信じるのは自由だ。

しかし、その信念を使って他人の見えない努力を消した瞬間、励ましの言葉は裁判官の木槌に変わる。

世界が公正であってほしいという願いで、現実の不公正を隠すな。

目を閉じて「世界は公平だ」と唱えても、不公平は消えない。消えるのは、それを見つける君の視界だけである。

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