注意:本記事は『ペルソナ5』『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』の人物描写から、日本社会の自己責任論を考える非公式考察である。
画材を買った。食費が死んだ。自己責任――一秒裁判、開廷即処刑
祐介は画材へ金を使いすぎる。食費を後回しにし、胃袋へ絵具の請求書を突きつける。
ならば貧困は本人の責任。判決。閉廷。処刑台へ。
証人不要。調査不要。背景不要。困っている者の失敗を一つ摘出し、「自己責任」の呪符を額へ貼れば、その瞬間に人間は支援対象から見世物へ降格する。
便利すぎて吐いた反吐が拍手する。
本人の問題を一ミリも解決しないくせに、周囲が何もしなくてよい理由だけは神の建築物のように完成する。自己責任とは、無力な傍観者へ無罪判決を自動発行する黒い印刷機だ。
選択の首だけ切り取るな――その手を作った過去の屍列を見ろ
本人の選択を消し、何もかも社会という巨大霊のせいにする気はない。
祐介には意思がある。美学がある。間違った判断もする。人形ではない。だからこそ選択を、過去から切断された標本にするな。
選択は真空から生えない。人間の意思は無菌室で製造される神聖部品ではない。
生活と創作を師に握られ、健全な金銭管理を練習する機会を食い潰された者。その者が財布を誤るたび「自分で選んだ」とだけ唱える。
お前は選択を見ていない。自分を無罪にする一瞬だけを切り抜き、額縁へ入れ、「全人生」と題して展示している。
カメラを引け。もっとだ。お前の良心が画面端へ逃げられなくなるまで。
失敗へ続く一本道を、支配と孤立が何年もかけて舗装していたことが見える。その道を歩いた本人だけ処刑し、道路工事の記録を燃やすな。
「美しい弱者」だけ救う――支援者の審美眼という処刑装置
世間は支援される者へ聖人資格を要求する。飢えていても清く、失敗しても従順で、支援者の気分を一度も害さない完全被害者だ。
- 無駄遣いをしない
- 感謝を忘れない
- 助言へ素直に従う
- 二度と失敗しない
- 支援者を不快にさせない
全部できる者だけが「助ける価値のある弱者」として天国の入場券を得る。
笑わせるな。条件が多すぎて、その天国には誰も入れない。門番だけが善人面で立っている。
生活管理が完璧で、判断を誤らず、助言どおり動けるなら、支援の必要は小さい。支援の入口で「支援なしでも歩ける証明」を要求する。論理が自分の尾を食って絶命している。
困難の一部として判断の偏りがある者を、「偏りがあるから」と入口で追い返す。出口へ自力で到達できる者だけ入場を許す、狂った迷宮。設計者の脳内こそパレスだ。
金銭感覚が危うい――だから支援の召喚条件は満たされた
祐介の金銭感覚は危うい。画材という月へ向かい、食費という地面を忘れる。
だから支援しない? 逆向きに回転する羅針盤でも食ったのか?
逆だ。危うさは排除の印ではない。支援開始の警報だ。
危ういからこそ、一緒に仕組みを作る。失敗を予言して見捨てるのではなく、失敗しても死なない回路を先に引く。
「うまく使えないなら渡さない」ではない。「うまく使える条件を一緒に作る」だ。財布を没収するのでも、崖へ投げるのでもない。
もちろん本人には拒否権がある。だが拒否される可能性を、声すらかけない結界へ変えるな。それは尊重ではない。「俺は悪くない」と墓石へ先回りで彫る作業だ。
日本社会のパレスには主がいない――全員が壁で、全員が鍵だ
『ペルソナ5』は、歪んだ大人へ若者が反逆する物語だ。主を見つけ、予告状を出し、心臓部を盗む。
だが祐介の生活へ目を移すと、斑目を倒した後にも自己責任の霧が残る。ボスを倒してもダンジョンが消えない。むしろ日常へ透明化する。
明確な支配者はいない。玉座は空席だ。
誰も積極的に刃を刺していない。全員が少しずつ手を離しただけだ。
だから誰も責任を取らない。主なきパレスは、責任の首を差し出す生贄すらいない。
「誰も悪くない。ゆえに誰も動かない」。この無罪判決の円陣こそ、日本社会が駅前にも学校にも家庭にも量産する小型パレスだ。
主がいないから改心させられない。全員が小指一本で扉を支え、全員が「自分は関係ない」と唱える。その小指が何百万本も集まり、鉄壁になる。
自己責任は本人の責任を語る言葉だったはずだ。だが周囲の責任を消すために振り回した瞬間、傍観者全員へ無罪を配る最も醜い仮面になる。

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