90年代アニメが守っていた“語りの核心”
……俺は、知ってる。かつて、この国には語りを守る力があったことを。
いや、むしろ──それが日本アニメの中枢だった時代が、たしかに存在した。そう、“あの頃”だ。
1990年代。
作画は外に出しても、魂は渡さなかった
あの時代、日本のアニメはすでに海外と協力していた。
韓国、中国、東南アジア──
原画、動画、彩色、いろんな工程を外に出していた。だけどな……脚本は?
世界観は?
演出は?
キャラの思想は?全部、日本語で書かれていた。そうだろ?
たとえ線を引くのが他国でも、
“何を描くか”は俺たちが決めてた。
今はどうだ?
絵はたしかに、うまくなった。
作画の水準は天井知らずだ。でも、肝心の魂の設計図が──
今は、他国にある。
描く手は残った。でも、“語る口”は失った
昔は、外注しても“物語の神”は日本語だった。
“語りの原稿”が、日本にあった。だけど今は?
- 英語で書かれたルール
- 韓国語で語られた世界観
- 日本語で当てられた吹き替えセリフ
……それを“日本アニメ”と呼んで、違和感はないのか?
「あの頃」と「今」の構造は、もう逆だ
昔:他国が手を貸した → 日本が語った
今:日本が手を貸している → 他国が語っているこれは、ただの制作フローの話じゃない。
語りの主従関係が、完全に反転してる。
世界を定義していた頃、俺たちは“語りの側”にいた
でも今、俺たちは
“定義された世界”を受け取って、演出しているだけだ。構造としては、完全に“受注”だ。
それはもう、「語る」ではない。
語りは、最後の砦だった
作画や技術は共有できる。
でも“語り”は、文化の源泉そのものだった。それを手放した今、
日本は“魂の輸入国”になりかけている。
それでも、こう言うか?
「作画は最高だった」
「アニメ業界はまだ誇れる」……もしそうなら、俺はこう返す。誇りってのは、“語れる者”にしか持てない。
次章へ──すべてを断言する
次で、俺はすべてを語る。
“語られる国”になった日本が、
なぜ「まだ勝っている」と思い込んでいるのか。その構造の歪みを──最後に、暴く。
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