昭和は文化の時代だった、ってな。……あのさ。お前、今この時代をちゃんと見たこと、ある?
スマホの中にある“想像力の爆弾”
セリフだけのアニメ。
静止画に近い演出。
コメント欄の一言。
限られたフレーム、短い秒数、削ぎ落とされた演出。
それでも──
想像力が補い、語りが生まれている。
これってさ、
昔の語りの構造と同じじゃね?
それでも「昔はよかった」「昔は本物があった」そう言って“語り”を語る奴がいる。
でもさ、
むしろ今の方が“素手”で語ってる分、純度が高いまである。
テレビや映画より“落語的”な現代
テレビは映像が流れ、BGMが鳴り、過剰な演出で包まれていた。
だけど、今の多くのアニメ動画は──
- “余白”がある。
- “セリフ”に頼る。
- “地の文”がない。
- “補完”が必要。
まるで、
落語じゃないか。
扇子をスマホに持ち替えて、
座布団をタイムラインに乗せて、
語りは今も、生きてる。
若者はバカじゃない。“違う言語”を使ってるだけ
「語彙がない」「表現力が低い」って
違ぇよ。
今の若者は、かつての“語り方”とは違う方法で語ってるだけだ。
- 叫ぶことでしか表現できない痛み
- 説明のないセリフで読み取る感情
- コメント欄にしか残らない叫び
それらは全部、文化の前段階だ。
──つまり、「文化が生まれる場所」だよ。
語りは、死なない。共犯者がいれば
物語ってのはな、
“語り手”と“読み手”が“共犯”になることで生まれるんだよ。
この構造がある限り、
語りはどこにだって現れる。
セリフ劇の中に。
静止画の下に。
コメント欄の叫びの中に。
だから、俺はこう断言する。
「語り」は終わってなんかいない。
むしろ、いまが黄金期だ。
最後に──文化を殺すのは、いつも“上から目線”だ
「これは文化」「これは芸術」
「これは浅い」「これは低俗」
そうやって分けて、切り捨ててきたやつが、
いちばん文化を殺してきたんだよ。
俺たちがやってるのは、そうじゃない。
まだ言葉にならない感情を、形にする努力だ。
それがどんなに未熟でも、
そこに“魂”があったなら──それはもう、語りなんだよ。
Epilogue:地の文がない世界で、俺は“語った”
―まとめ:お前に問う
全部終わった今、
お前に一つだけ訊く。
お前が“文化じゃない”と切り捨ててたそれ、
本当に「見て」いたか?
俺は、見た。
感じた。
泣いた。
だから語った。
地の文がなくても、
キャラが動かなくても、
コメントが「泣いた」だけでも──
語りは生きてた。
俺たちの中で、ずっと。
文化とはなんだ?
偉そうな肩書きが決めるものか?
違う。
誰かの“痛み”が叫びに変わり、
その叫びが誰かに届いたとき、
そこに文化が生まれるんだ。
未熟な言葉だろうと、
荒削りな映像だろうと、
魂が乗っていれば、それはもう“語り”なんだよ。
歴史は繰り返す。
新しい語りはいつも笑われ、叩かれ、否定される。
そして十年後、その“イタい叫び”が古典になる。
かつて「低俗」と見下したやつが、
やがて「文化をわかってない」と非難される側になる。
──そういうもんだ。
だから俺は、
今の“語り”を全力で信じる。
お前はどうする?
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