第3章|エセ外国語“意味のなさ”の芸術──

第3章|エセ外国語“意味のなさ”の芸術── アニメ

意味のない言葉の笑いの芸術──

“エセ外国語”そんなバカげた芸が、この国にはあった。

そう、タモリの“エセ外国語”だ。

ドイツ語風、イタリア語風、中国語風、アラビア語風……
聞けばどこかそれっぽい。
でも実際には、まったく意味がない。単なる音の連なりだ。

なのに、俺たちは笑った。
なぜか?「ありそう」に聞こえるからだ。

“意味があるように聞こえる無意味”

この芸の面白さは、“意味がないこと”にある。

それでも人間の耳と脳は、そこに勝手に読み取るんだ。

  • 文法らしき構造
  • 感情の抑揚
  • 言語的リズム

そう、“意味があるように聞こえる無意味”。
この絶妙なラインを踏み外さずに転がす、それがタモリという装置だった。

AIにやらせたらどうなる?

じゃあ、AIにこれをやらせたらどうなるか?

──結論から言うと、ダメだ。

AIは「それっぽいが無意味」なものを作るのが、絶望的に苦手だ。

なぜかって?
AIは「意味のある出力」を目指すよう設計されてるからだ。

仮に「意味はなくていいから、外国語風の音を出して」と指示しても、
AIは既存のどこかの言語に近づけるか、ただの無秩序な音列を吐き出すかのどっちかだ。

「それっぽさ」と「無意味さ」のバランス。
その間に生まれるグラデーションは、AIにとって未知の領域だ。

意味の外側に立てるかどうか

エセ外国語の芸には、

  • 音の感覚
  • 言語の再構成力
  • 演技としての声色と間

そういう、“意味の外側”の構成要素が必要になる。

だが、AIは意味を付けなきゃ落ち着かない。

逆に人間は、意味がなくても笑える。
意味がなくても泣ける。
意味がないからこそ、表現として立ち上がることすらある。

創作の分岐点

ここにあるのは、創作における決定的な分岐点だ。

AIは意味を正す。
人間は意味を裏切り、放り出し、遊ぶ。

AIにとって無意味はノイズだ。
人間にとって無意味は、可能性だ。

だから俺は断言する。

意味を壊して遊べるのは──
今のところ、まだ人間だけだ。

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