意味のない言葉の笑いの芸術──
“エセ外国語”そんなバカげた芸が、この国にはあった。
そう、タモリの“エセ外国語”だ。
ドイツ語風、イタリア語風、中国語風、アラビア語風……
聞けばどこかそれっぽい。
でも実際には、まったく意味がない。単なる音の連なりだ。
なのに、俺たちは笑った。
なぜか?「ありそう」に聞こえるからだ。
“意味があるように聞こえる無意味”
この芸の面白さは、“意味がないこと”にある。
それでも人間の耳と脳は、そこに勝手に読み取るんだ。
- 文法らしき構造
- 感情の抑揚
- 言語的リズム
そう、“意味があるように聞こえる無意味”。
この絶妙なラインを踏み外さずに転がす、それがタモリという装置だった。
AIにやらせたらどうなる?
じゃあ、AIにこれをやらせたらどうなるか?
──結論から言うと、ダメだ。
AIは「それっぽいが無意味」なものを作るのが、絶望的に苦手だ。
なぜかって?
AIは「意味のある出力」を目指すよう設計されてるからだ。
仮に「意味はなくていいから、外国語風の音を出して」と指示しても、
AIは既存のどこかの言語に近づけるか、ただの無秩序な音列を吐き出すかのどっちかだ。
「それっぽさ」と「無意味さ」のバランス。
その間に生まれるグラデーションは、AIにとって未知の領域だ。
意味の外側に立てるかどうか
エセ外国語の芸には、
- 音の感覚
- 言語の再構成力
- 演技としての声色と間
そういう、“意味の外側”の構成要素が必要になる。
だが、AIは意味を付けなきゃ落ち着かない。
逆に人間は、意味がなくても笑える。
意味がなくても泣ける。
意味がないからこそ、表現として立ち上がることすらある。
創作の分岐点
ここにあるのは、創作における決定的な分岐点だ。
AIは意味を正す。
人間は意味を裏切り、放り出し、遊ぶ。
AIにとって無意味はノイズだ。
人間にとって無意味は、可能性だ。
だから俺は断言する。
意味を壊して遊べるのは──
今のところ、まだ人間だけだ。
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