なぜ“東京”に日本語がない?──文化の主導権を奪う構造とは

第1章:日本語のない“東京”──見えているのに、読めない世界の正体 アニメ

……なあ、ちょっと訊いていいか?
「あの風景、“東京”だよな?」って──
見た目はたしかに東京っぽい。でも違和感がすごいんだよ。
看板、標識、広告、張り紙──全部アルファベット。

……なあ、どこに“日本語”があるんだよ?

つまり、それってさ──
そこはもう、俺たちの物語じゃないってことなんだ。

今回はアニメの“背景”──つまり、言語の存在そのものに注目する。
なぜ「東京のような何か」には日本語が消え、
“翻訳前提の風景”が量産されているのか。

そこには、ただの演出では済まない問題が潜んでる。

そう──“語る力”を失っていく日本文化そのものが、背景で静かに死んでるんだよ。

東京が飲まれるローマ字のダンジョン

駅も、電車も、街並みも──どう見ても“東京っぽい”風景。
それなのにさ……

どこにも、日本語がない。アルファベットなんだよ……

看板、広告、張り紙──全部が“読まれること”を拒んでる。
それってつまり、
この風景は「翻訳されるため」に存在してるってことなんだ。

それって、つまり、
「なんとなく東京」な外観だけが残った
“汎用型・無国籍ステージセット”──それがこの“背景”なんだ。

かつて、背景の文字は“語り”だった

昔のアニメってさ、
たとえ背景にちょこっと映るだけでも、文字があったんだよ。

  • 定食屋のメニュー
  • 居酒屋の張り紙
  • 校門の標語
  • 昭和感のにじむ看板

そういう細部まで含めて、日本語で語られた世界だった。

視聴者はそこから匂いや時間や空気を感じ取って、
「この物語、俺たちの文化の中にある」って確信できた。

でも今はどうだ?

今、そこにあるのは、“翻訳用の風景”だ

『俺だけレベルアップな件』の背景にあるのは、
翻訳されることを前提とした世界なんだよ。

日本語が存在しないことで、
どんな言語にでも差し替えられる。

中国語でも、スペイン語でも、アラビア語でも──
「俺たちの国っぽく見える東京」を出荷するための、
“汎用型・無国籍都市”なんだよ、あれは。

日本語があるだけで、“自国”になる。
逆に言えば、ないだけで、他人の物語になる。

それに気づかずに、
「東京みたいで面白いね」とか言ってる連中──
お前ら、マジで“語りの喪失”に気づいてない。

日本語で世界を設計していた頃、
俺たちはまだ“物語の神”だった。

でも今は違う。

俺たちが見てるのは、
自分の言語で語られない“東京もどき”だ。

そう、そこは“語られた”場所じゃなくて、
“語ってる風”のステージセット。

じゃあ訊く。
お前、本当にあの作品が“日本アニメ”だと思ってるのか?

背景に言葉がない世界で、
俺たちの何が語られているって言うんだよ。

日本語が消えた時、語りは“商品”になった

昔のアニメ背景には、日本語があった。
定食屋のメニューも、昭和看板も、校門の標語も──すべてが“語り”だった。

でも今あるのは、どこでもない都市。
誰にでも出荷できる、翻訳可能性だけの舞台装置だ。

日本語が消えた。それは、語りを放棄したってことだ。

「この物語、俺たちの文化の中にある」──そんな確信が、もう持てない。

そして俺たちは、気づかぬうちに“観客”に戻されてる。
“語る側”だったはずの日本が、“観られるだけの存在”になったってわけだ。

そう、これこそが──日本だけが「レベルダウン」している件なんだよ。

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