ここまで散々、語ってきた。セリフだけで動く物語。地の文がない作品。コメントの叫び。痛い語彙。「浅い」「チープ」「文化じゃない」──お前はそう言った。
……でもな。その全部が、実は“古典”の形そのまんまだったら──お前、どうすんだよ。
それはな……
一人芝居で世界を描く──落語という“省エネ構造”
そう、それは落語だ。
古典芸能。笑いの文化遺産。
──ありがたがってる奴は多いよな。
でも、落語って何か知ってるか?
- 演者は一人
- 小道具は扇子と手ぬぐい
- セリフだけで複数キャラを演じ分け
- 地の文。背景。演出。すべて最低限
……あれ、どっかで見たよな?
そう、まさに──“ソシャゲのストーリー”と同じ構造だ。
省リソースで成立する語り。それは“想像力の共犯”だ
落語は成立する。
なぜか?
観客が、想像で世界を補ってるからだ。
扇子を箸に見立て、
手ぬぐいを財布に見立て、
語られない地の文を、客が脳内で生成してる。
まさに、
演者と受け手が共同で物語を構築する“共犯関係”。
これ、今のお前が「浅い」と言った構造と──まったく同じなんだよ。
落語は「文化」で、セリフ劇は「低俗」? その差は“見た目”だけ
落語は座布団に正座して、着物を着て、言葉を操る。
──だから“文化っぽく見える”。
ソシャゲやYouTubeアニメは、立ち絵とセリフと簡易モーション。
──だから“安っぽく見える”。
でもな、
構造はまったく同じ。
ならば、
お前が見下したその演出、
ただの“服を着替えた落語”だよ。
想像力で動かす物語。それは“語り”の最古の形
語りの原点に、CGも背景もボイスもいらない。
必要なのは、
- 話し手の“間”
- 受け手の“補完”
- 想像力という“火花”
それさえあれば、
語りは成立するし、文化にもなる。
つまり──
お前が軽く見てた“あの形式”、
それ、全部“落語”の構造だったんだよ。
「形式で判断したお前」が文化の“敵”だった
笑えるよな。
落語は文化。
でも、YouTubeでセリフだけのアニメをやると「子供だまし」。
何が違う?
──演出のコストだけだ。
お前は「安く見えるもの」を「価値がない」と判断した。
それ、
想像力を放棄した者の末路だよ。
“語り”は今も、生きてる──そして、お前も巻き込まれてる
次回、最終章だ。
ここまで語ってきた構造は、
過去の遺産じゃない。
今も、スマホの中で、
日々、誰かの魂を震わせている。
語りは死なない。
──形を変えながら、生きている。
お前が気づこうと気づくまいと、な。
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